町域図 ■-浅草新吉原揚屋町 ■-浅草新吉原角町 | |
揚屋町「まちしるべ」 千束四丁目31番 歩道上 | |
角町「まちしるべ」 千束四丁目24番 | |
揚屋町「まちしるべ」本文
元和3年(1617)幕府は日本橋葺屋(ふきや)町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭(よし)の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原(よしわら)”と呼ばれた。
そして寛永3年(1626)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦2年(1656)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌3年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の5ヵ町であった。揚屋町ができたのは、吉原が新吉原へ移転する際に、それまで各町にあったいくつかの揚屋を1ヵ所にまとめたときである。
角 町「まちしるべ」本文
(前段は揚屋町「まちしるべ」と同じ)
……。そのうちの角町は寛永3年に京橋角町の傾城屋(けいせいや)約10軒が移転してできた町である。
補 足
(浅草新吉原江戸町一、二丁目のページから続く)
移転にともなう5割増しの土地支給によって、新吉原には五丁に加えて揚屋町が新しく設けられた。
新吉原へは、日本堤土手通りを見返り柳のところで南西に折れて衣紋坂(えもんざか)を下り、五十間道を抜けて大門を入り、遊郭に達した。大門は新吉原遊郭の出入口であり、遊客も遊女もここからしか、郭(くるわ)内への出入ができなかった。
見返り柳および五十間道のあるところは、昭和41年の住居表示実施直前までは浅草日本堤二丁目と三丁目の境界に位置していたので、正確には「新吉原」を冠する町に属していなかった。
しかし、さかのぼって、昭和10年代に浅草日本堤一〜四丁目が起立する過程で消滅するまでの町名は浅草五十間町。明治6年に浅草新吉原五十間道を改称した町名である。
(浅草新吉原京町一、二丁目のページに続く)
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