戦後日本声楽界の恩人

ヒュッシュ先生を偲ぶ

 

ゲルハルト・ヒュッシュ生誕100周年記念 

 

 

 声楽家が、単に声楽家としてでなく、芸術家として完成されるには、

勇気と忍耐、ほんとうの感動、豊かなイマジネーションそして、優れた

耳と言ったものが、助けとなります。

 ひとたび、この目的を持って、この道を歩む時、芸術家のもつべき素養

の調和的完成に達するために、その人に起る境遇のすべては、芸術的出

会いと変化し、すべてが、運命的、宿命的出会いと言うべきものになり、

尚かつ、芸術家として、成長すべき機会となります。

 我々の若い仲間達が、今日の音楽会によって、その目的の達成に少しで

も近寄らんことを願わずにはおられません。

 

          

              ゲルハルト・ヒュッシュ        

 

 

  (1970911日名古屋における公演プログラムより転載)

         

 

 

ゲルハルト・ヒュッシュ生誕100周年記念事業実行委員会

      会長   中山悌一 

      委員長  大賀典雄        

      実行委員 秋山恵美子 伊原直子 大平繁子 岡崎實俊 

           川上勝功 川村英司 木川田 澄 鬼頭礼子 

           蔵田裕行 小林道夫 古池三沙子 河野克典 

           三林輝夫 嶋屋節子 鈴木寛一 高折 續 

           高仁幸忠 高橋大海 築地文夫 豊住征子 

           中瀬絹江 原田茂生 平野忠彦 真嶋美弥 

           宮原卓也 持田 篤 山田俊雄 山路亮三 

           横田浩和 吉江忠男 吉野靖夫 渡邊 明

ご あ い さ つ

 私たちの恩師、故ゲルハルト・ヒュッシュ教授は、190122日ドイツ・ハノーヴァーで生まれ、19841121日同国レーゲンスブルクにおいて亡くなられた。したがって、200122日は教授のまさに生誕100周年にあたる。

 世界的バリトン歌手であり偉大な教育家、ヒュッシュ教授の知名度に関して程、ジェネレーション間で大きな落差を見せる例は今日見出せまい。熟年世代の音楽家、音楽ファンにとっては教授が当時の世界楽壇において金字塔のように高く聳え立つ存在であったのに対し、今日の若いジェネレーションの人たちの間では教授の名前を知っているかどうかすら少なからず怪しくなってくる。

 ヒュッシュ教授は、詳細本誌年譜表のとおり、歌曲、オペラ、声楽教育において生国ドイツだけでなく世界を股に活躍された大芸術家だが,わが国との関係も実は長くて深い。戦前・戦後にわたりSPレコード、演奏会、放送などを通じ、わが国の声楽家や音楽愛好家に極めて大きな影響と感動を与える一方、1963年から2年間は東京芸術大学において、また1968年から4年間は愛知県立芸術大学において、さらにその前後には国立音楽大学や洗足学園大学においても、教鞭をとられ親しく後進を指導された。

 当時の声楽学徒、すなわち演奏や教育等に携わる私たち多くの声楽家が今日あるは、ヒュッシュ教授の正統派ヨーロッパ芸術に支えられた全身全霊のご指導、ご薫陶、叱咤激励の賜物であると言っても決して過言ではあるまい。まさにヒュッシュ教授こそ、戦後日本の声楽復興の礎を築いて下さった日本楽壇の大恩人であった。このことは教授の謦咳に接した者が確信をもって口にできる異口同音の評価である。

 ヒュッシュ教授生誕100周年の機を捉え,日本における教授のそうした偉業を称え、感謝し、かつ後世にその名と業績を遺すべく何らかの記念事業を興そうという声が、かつての門弟だけではなく教授の芸術をこよなく愛しそれに酔いしれた多くの愛好家の間から期せずしてあがったのは、ことの当然の成り行きであった。

 こうしてほぼ1年前、かつてのヒュッシュ門下生に熱烈なヒュッシュ愛好家一部も加わって当記念事業実行委員会が設立され、その後の委員会の熱心な検討・準備を経て、本夕の記念演奏会・記念展示会開催とそのプログラムを兼ねた当小誌刊行が実現される運びとなった。

 わたくし達のこのささやかな記念事業を契機に、ヒュッシュ教授の功績がいつまでも後世に伝えられ、日本での声楽芸術の一層の向上と振興が図られることになれば、私たちの喜び、これに優るものはない。

 末筆ながら、当記念公演実施を心から喜んで下さりゆかりの品々を展示用にご提供下さった教授夫人、マリー−ルイーゼ・ヒュッシュさん、本日の会場となる奏楽堂利用に関しご協力下さった東京芸術大学に対し、格別の御礼をここに申し述べたい。

      2001年2月21日

          ゲルハルト・ヒュッシュ生誕100周年記念事業実行委員

  

ヒュッシュ夫人よりの感謝状

 

(訳文)

 

記念事業実行委員会

  会長  中山悌一様

  委員長 大賀典雄様

  実行委員の皆様

記念演奏会出演をご快諾下さった

  声楽家・ピアニストの皆様

記念事業に力を貸して下さった

  多くの皆様

 

皆様方に私の心からの御礼を申し述べます。

ヒュッシュは声楽教育を責任重く将来を志向する重要な仕事だと常に考え、夢中になって楽しみかつ真剣に取り組みました。彼は日本の教え子たちの才能と真摯な態度に揺るぎない信頼をおき、常に彼らを勇気づけ、伸ばすよう努めました。

今宵の演奏会は、こうした彼の努力が正しく受け入れられ理解されたことの証しであるとともに、彼の長年にわたる仕事と信念が正しかったことを裏づけるものにほかならない、と私は考えています。今宵の演奏の隅々にまで彼の心を魅了してやまなかったあの“楽しい熱狂”が共に響きわたることと思います。

本当にありがとうございました。

さらには、皆様方がこれ程もの長い間忠実にヒュッシュと彼の業績を記憶に育んで下さったことに対して、また皆様方が彼と彼の芸術に対して抱いて下さった愛情と尊敬の念に対して、さらにそうした愛情と尊敬の念をこの記念すべき夕べにこのような素晴らしい形で顕わして下さることに対して、私は心からの御礼を申し述べます。

ご成功を心から願いつつ

(自署)

マリー=ルイーゼ ヒュッシュ

 

 

              目  次

              ヒュッシュ先生と声楽教育   中山悌一     6

                ヒュッシュ先生の功績     大賀典雄     7

                運命的出会い−私のケース   高橋大海     8

                ヒュッシュ先生との心の交流  古池三沙子    9

                マリー=ルイ−ゼ・ヒュッシュ夫人のこと

嶋屋節子    10

 

              T  記念演奏会プログラム        11

               U  ヒュッシュ先生の思い出        15

              V  ありし日のヒュッシュ先生       21

                          IV  自筆年譜                           31

 

 

 

ヒュッシュ先生と声楽教育

                 

                  中山悌一 Teiichi Nakayama

                  (実行委員会会長・二期会会長

 

 1901年生まれのヒュッシュ先生が亡くなられてから、早いもので16年が過ぎました。

 

 ゲルハルト ヒュッシュの名を知ったのは、まだ東京音楽学校に入る前の頃に聴いた「冬の旅」のレコードでした。それまでも色々なレコードを聴いていましたが、日本で初めて発売されたそのレコードを聴いた時に受けた大きな衝撃が、私に声楽家として進むことを決めさせる強烈なきっかけとなりました。

 このレコードの日本における売上枚数は世界的に見ても驚嘆すべきものであったと聞いています.。それまで我が国ではドイツ歌曲のジャンルは軽めに見られ、イタリー物が大多数を占めていましたから、ヒュッシュ先生のレコードが初めてドイツ歌曲の素晴らしさを日本に伝えたのだと思います。

 

1952年、第1回日独交換留学生に推薦された折、ちょうど初来日されていたヒュッシュ先生に、芸大の外国人講師ネトケ=レーヴェ先生が紹介して下さり、相談の結果、すんなりミュンヘンで先生の教えを受けることに決まりました。

 

先生の人格は優しく、怒るということは一切ありませんでした。レッスンは特に個性的なやり方という訳ではなく、極めて親切に、根気よく、後輩を導いて行くという風な、ある意味で言うと教師の理想像というものでした。それまで我が国の教師には、怒って教えるというやり方がはびこっていましたから、ヒュッシュ先生の教え方はショッキングともいえる経験でした。

 

 それから50余年経ちますが、教育者としてのヒュッシュ先生の面影は、いまだに忘れがたき思い出となっております。

 その後、このように多くの歌手たちが先生の薫陶を受けることになったのも、何かのご縁と言えそうです。

 

 

 

 

ヒュッシュ先生の功績

            

                   大賀典雄 Norio Ohga

                  (実行委員会委員長・ソニー取締役会議長)

 

 ヒュッシュ先生の数多くのドイツリートのレコード、なかでもシューベルトの「冬の旅」はおそらく世界中で一番売れたのは日本と言われるほど注目されました。

晩年のヒュッシュ先生に、SPの「冬の旅」の曲集についてお聞きしたことがあります。

1933年頃、ベルリン国立歌劇場の花形バリトン歌手であったヒュッシュ先生は、その当時歌劇場で指揮をしていたハンス・ウード・ミュラーとともに、ロンドンのEMIのスタジオで「冬の旅」全曲を録音したのですが、その当時SP盤に録音できる時間はとても短くて、第1曲の「おやすみ」には苦労したそうです。12インチ盤に収めるために2番の繰り返しを省いて、全体のテンポを少し速くしたそうです。あの当時レコードにするために好まざるテンポで歌ったことを、とても悔やんでおられました。

 このようにしてでき上がった「冬の旅」全曲は我が国では1936年に発売になり声楽を志す者、愛好する者はレコードがすり切れるほど聞いたものでした。

 戦後になって1952(昭和27)、NHKがヒュッシュ先生を招聘しましたが、その際に「白鳥の歌」全曲が録音されることになりました。その時の伴奏者は、日本に住んでおられたマンフレート・グルリットさんでしたが、あまりにもピアノにたけていて弾きくずれがあり、ヒュッシュ先生の言う、あの端正さというものに欠けていたため、先生自身あまり満足できなかったと聞き、とても残念に思いました。

 ヒュッシュ先生は非常に日本が気に入って、何度も来日されました。最後には日本の若い学生たちを指導するために2年間も大学で教えられたほど、戦後のヒュッシュ先生の生活から、日本という国は切り離すことができないくらい深い関係となりました。

 日本で声楽を普及させたヒュッシュ先生の功績は大変大きいと思います。

    (1997年NHK趣味百科「シューベルトを歌う」/NHK出版より抜粋)

 

 

運命的出会い―私のケース

         

                      高橋大海 Taikai Takahashi

                      (実行委員代表・東京芸術大学音楽学部長)

 私は物心ついたころからSP盤に囲まれ、クラッシクを聴いて育った。だが日本中の音楽フアンを魅了したというヒュッシュ先生独唱の連作歌曲集「冬の旅」(1933年録音)の存在を知ったのは高校に入ってから。まだドイツ語を解さない時だが、声の渋さや表現の端正さに魅了され、「こういう歌手になりたい」とあこがれた。その大歌手が61年、芸大の外国人講師として招かれることが決まったのだから、四年生に在籍していた私は何としても、先生のレッスンを受けたかった。ヒュッシュ・クラスの定員は芸大との契約で六人と定められ、私は選から洩れたが、恩師中山悌一教授が食い下がった結果、聴講生として参加を認められた。

 幸か不幸か、ヒュッシュ先生は英語が得意ではなく、疲れてくるとドイツ語だけの授業に。単語の羅列程度はできた聴講生に通訳係のような役目が回ってきた。先生に「こいつはドイツ語を話す」と過大評価され、日常の用足しまで手伝うようになった。渋谷の宿舎での個人レッスンも許された。「今日は電器屋さんの通訳料」「押し売り撃退のご褒美」とかで謝礼は受け取ってくれなかった。

 指導は「譜面を大切に」の一語に尽きた。「歌は怒鳴るものではなお」と戒め、感傷や物珍しさを排して真の叙情を求め、音楽の構造の基本にあるリズムの力、機能を徹底して追求した。厳格であったが、今にして思えば低レベルの孫のような生徒たちを前に「ミュッセン(しなければならない)」ではなく、「ゾッレン(すべき、した方がよい)」と根気よく説いた。

 博学で人間性に満ちた先生が一瞬、別の表情を見せるのは、オペラの授業だった。女性の抱き方、ダンスのステップの踏み方などは、第二次大戦前から欧州各地の歌劇場で活躍した名歌手の面目躍如だった。

 芸大へ教えに来る前の5253年には単身で来日し、「ドン・ジョバンニ」の主役や「魔笛」のパパゲーノ、「タンホイザー」のウォルフラムを演じたそうだが、私は接する機会がなかった。ただ、歌舞伎座で演じたパパゲーノの写真は見覚えがあり、芸大の古い奏楽堂で初対面した折は「あの雰囲気のままの人だ」と思った。当時、私たち学生はヒュッシュ先生を通じ、欧州文化の本質に触れようとしていた。

 学生には人気のあった先生だが、あいまいさを嫌い白黒をはっきり付ける欧州人気質は、ドイツの事情に通じた中山先生以外の大学の組織との間であつれきを起こした。1期2年の契約が延長されることはなく、ヒュッシュ先生は63年に旧西独に戻った。横浜港へ見送りに出かけた私は、音楽すべてとの別れのような気がして、船が見えなくなった後も、長く岸壁にたたずんでいた。

         (2001.2.2日本経済新聞掲載「ドイツ曲 師の心歌い継ぐ」より抜粋)

ヒュッシュ先生との心の交流

         

                   古池三沙子 Misako Koike

                   (実行委員・タレントピアノ音楽院院長)  

 今年がヒッシュ先生御生誕百周年との事で、御弟子様方を中心にヒッシュ先生ファンの方々で、さまざまな記念行事を催されると伺い、日本をこよなく愛しておられた天国のヒッシュ先生並びに、レーゲンスブルグ郊外に御健在のヒッシュ夫人もどんなにかお喜こびの事と存じます。戦後二度までも来日され、日本の声楽会に大きな貢献をされた先生を偲んでコンサートを催され、出演者を募られたところ、すでにお弟子様方二十名以上の希望者がおられるとの事、盛大なコンサートが予想され本当に楽しみでございます。

 私がヒュッシュ先生ご一家とお知り合いにならせて頂いたのは、私のミュンヘン留学がきまった時、恩師、故諸井三郎先生が「ミュンヘン音大にはヒッシュ先生がおられて大層お立派なお方だから、ぜひお訪ねするように」とおっしゃって、紹介状を書いて下さいました。それ以来、ミュンヘン留学中にヒッシュ先生御夫妻から受けた御恩は口には尽せない程で、その一例をあげますと、大みそかの夜、わざわざ日本から取寄せられたおそばで年越そばと、元旦にはおぞう煮をご馳走して頂いた事でした。

 先生が重病にかかられた時、その報が伝わるや日本の嘗てのお弟子さん方は勿論、「冬の旅」のレコードでファンになった方々からまでお見舞金やお見舞いの品々をぞくぞくと先生宅に届けられ、全然予期しなかったご夫妻を吃驚させ感動させました。

 それにもまして、ヒッシュ先生のファンでいらした皇太子妃美智子様にその事を申し上げたところ、妃殿下は大層お心を痛められ「ぜひ一日も早くご全快遊ばされますよう心からお祈り申し上げます。ヒッシュ先生は敗戦で混乱し、身も心も打ちひしがれた日本人の心に温かな美しい灯をともしてくださった大恩人でいらっしゃいます。」とおおせられ、ご自身も嘗てヒッシュ先生のリサイタルをおききになられ、レコードも集めておられた事をお話下さいました。

 早速西独のヒッシュ先生のもとに妃殿下のお言葉を手紙でお伝え致しました。その頃、最悪のご病状で人事不省の状態が続いておられた先生の耳もとで、夫人が妃殿下のお言葉をよんで差上げたところ、何もおわかりにならないと思っていた先生が、ニッコリほほ笑まれ、それがきっかけになって快方に向かわれたとの事でした。先生は大層妃殿下を尊敬申し上げておられました。

 ヒッシュ先生の根底に流れていたものは、広く深い人類愛で、そこから先生の芸術は勿論、生活のすべてが出発されておられたという事がこの頃になってはっきりわかったように思われ、だからこそ先生の「冬の旅」が数えきれない多くの人の心をつかみ感動させる事ができたと思います。

        

        

        マリー=ルイーゼ・ヒッシュ夫人のこと

                         

                                                  嶋屋節子 Setsuko Shimaya

                         実行委員・広島国際大学教授)

  このたび実行委員会に加わるようにとのお話があり、ヒッシュ令夫人との連絡係とし

 て微力ながらお役に立てればとお引受けいたしました。折々の文通以外にもヒッシュ先

 生ご健在の時分から夏季休暇にドイツへ行く機会があれば御宅を訪問して歓談の一時を

 過ごす機会に恵まれていたからであります。

  この度も20009月初旬に研修のために渡独を計画しており、委員会の計画と要望

 を直接お伝えするお使いの役が果たせました。

  その際ご夫人は、ヒッシュ先生はもう忘れられた存在であると思っていたのに、日本

 でこのように素晴らしい生誕100周年の記念音楽会を催す計画を立てて下さり本当に感

 激しておりますと、眼にうっすらと涙を浮かべておられました。

  そもそもヒッシュ先生のお宅を訪れるようになったのは1965年の春、現在埼玉大学名

 誉教授の宮原朗先生がご紹介くださったのが始まりでした。当時、私は「ドイツ学術交

 流会」の留学生としてミュンヘン大学でドイツ文学を専攻しており、1966年秋に帰国す

 るまで折にふれご招待を受けました。

  日本製家具調度が見事に配置された美しい客間、そこでの午後のカフェにはご夫人手

 作りのケーキがあり、その暖かいおもてなしに至福の一時を過ごしたものでした。

  1980年代の始めにレーゲンスブルク近郊へ移られた後も、お部屋の調度は以前と同じ

 ように輝いていました。

  時は流れ、1984年晩秋、ヒッシュ先生のお声は消えてしまいました。

  その年の年末、私は先生宅に弔問の冬の旅をしました。二期会からのお香典もことづ

 かりました。粉雪の降る音すら聞こえてくるような静かな大晦日の夜、新年へと時が移

 る時刻、夫人は壁に掛けてある日本製のドラに向かわれ、姉様と私に言われました。お

 世話になった日本の皆様に感謝しましょうと。私たち三人は夫人の感謝の言葉に続いて

 響くドラの音に合わせて東へ向かって黙祷しました。

  それ以来、日本で除夜の鐘を聞く毎に、ご夫人の日本にたいする篤い気持ちが伝わっ

 てくるのを感じます。

 

 

 

 

 

I ゲルハルト・ヒュッシュ生誕100周年記念演奏会 

  2001.2.21(水) 19:00 東京芸術大学 奏楽堂

プログラム

 

豊住征子Masako Toyozumi ソプラノ   星野明子Akiko Hoshino  ピアノ      

    捨てられた女神/H.ヴォルフ     Das verlassene MägdleinH. Wolf

       もう春だ/H.ヴォルフ  Er ist’sH. Wolf

 

河野克典Katsunori Kono  バリトン   星野明子Akiko Hoshino  ピアノ

        プロメテウス/F.シューベルト  PrometheusF. Schubert

 

山田俊雄Yamada Toshio  バリトン   小林 仁Hitoshi Kobayashi  ピアノ              

        鳩の使い/F.シューベルト   Die TaubenpostF. Schubert

 

秋山恵美子Emiko Akiyama  ソプラノ   三上かーりんKarin Mikami  ピアノ

    夕べの思い/W. A.モーツァルト  AbendempfindungW. A. Mozart

 

木川田 澄Kiyoshi Kikawada   バリトン   小林 仁Hitoshi Kobayashi ピアノ

    楽劇「パルジファル」より

      「あなたを迷わせた呪いは」/R.ワーグナー

    Monolog von Gurnemanz aus ParsifalR.Wagner

 

川上勝功Katsunori Kawakami  バリトン   三上かーりんKarin Mikami  ピアノ     

    たそがれの夢/R.シュトラウス  Traum durch die DämmerungR. Strauss          

    万霊節/R.シュトラウス  AllerseelenR. Strauss

 

吉江忠男Tadao Yoshie  バリトン   小林道夫Michio Kobayashi  ピアノ

        私の悲しみの美しいゆりかご/R. シューマン

    Schöne Wiege meiner LeidenR. Schumann    

        ミルテとバラを持って/R. シューマン 

    Mit Myrthen und RosenR. Schumann    

 

渡邊 明Akira Watanabe  バリトン   星野明子Akiko Hoshino  ピアノ

    私はこの世に見捨てられ/G. マーラー

            Ich bin der Welt abhanden gekommenG. Mahler  

 

中瀬絹枝Kinue Nakase  ソプラノ   守屋 新Shin Moriya  チェロ

    「7つのスペイン民謡」より

    ムーア人の織物、子守唄、ポロ/M. deファリャ

    El paño moronoNanaPoloM.de Falla          

 

真嶋美弥Miya Majima  ソプラノ   小林道夫Michio Kobayashi  ピアノ

            献呈/R.シューマン  WidmungR. Schumann

        私のバラ/R.シューマン  Meine RoseR. Schumann

 

鬼頭礼子Reiko Kito   メゾ・ソプラノ   森島英子Eiko Morishima    ピアノ

    オペラ「ジャンヌダルク」より

       「さらば美しき森よ」/P.チャイコフスキー

    Adieu, forêts! aus “Janne  d’arc“P Thaikovsky

 

持田 篤Atsushi Mochida  バリトン   森島英子Eiko Morishima   ピアノ

    いかがですか、わたしの女王様/J.ブラームス

    Wie bist du, meine KöniginJ. Brahms  

 

 

休 憩 PAUSE

 

 

大平繁子Shigeko Ohira ソプラノ   星野明子Hoshino  Akiko   ピアノ

    リラ/C.ラフマニノフ  CnpeHbS.Rachmaninoff

    女たちは答えた/C.ラフマニノフ   OHN otbeyaπNS.Rachmaninoff

 

蔵田裕行Hiroyuki Kurata  テノール   星野明子Akiko Hoshino  ピアノ

    我が思いのすべて/J.ブラームス  

    All’ mein GedankenJ. Brahms

 

高橋大海Taikai Takahashi       森島英子Eiko Morishima   ピアノ

    インテルメッツォ/R.シューマン  IntermezzoR. Schumann

    新緑/R.シューマン  Erste GrünR. Schumann

 

 

横田浩和Hirokazu Yokota  バリトン   森島英子Eiko Morishima   ピアノ

    オペラ「ドン ジョヴァン二」より

       「カタログの歌」/ W. A.モーツァルト

    Madamina! Il catalogo è questo aus Don GiovanniW. A. Mozart

         

高折 續Tuzuku Takaori バリトン   三上かーりんKarin Mikami  ピアノ

    春に/F.シューベルト   Im FrühlingF. Schubert

 

芳野靖夫Yasuo Yoshino  バリトン   小林 仁Hitoshi Kobayashi  ピアノ

      菩提樹/F.シューベルト  Der LindenbaumF. Schubert

 

築地文夫Fumio Tsukiji  バ ス   三上かーりんKarin Mikami  ピアノ

    詩人トム/C.レーヴェ   Tom der ReimerC. Loewe

 

原田茂生Shigeo Harada   バリトン   小林道夫Michio Kobayashi ピアノ       

    サフラン/R. シュトラウス  Die ZeitloseR. Strauss 

    ひそかないざない/R. シュトラウス  Heimliche AufforderungR. Strauss

 

岡崎實俊Sanetosi Okazaki テノール   小林道夫Michio Kobayashi ピアノ

    最初の喪失/ F.シューベルト  Erster VerlustF. Schubert

    春の想い/F.シューベルト  FrühlingsglaubeF. Schubert

 

川村英司Eishi Kawamura  バリトン   小林道夫Michio Kobayashi ピアノ               

    魔王/F.シューベルト  ErlkönigF. Schubert

 

宮原卓也Takuya Miyahara バリトン   小林 仁Hitoshi Kobayashi  ピアノ                               

            オペラ「魔弾の射手」より

       「森を過ぎ、野を越えて/C. M. v.ウェーバー

    Durch die Wälder, durch die Auen aus der FreischützC. M. v. Weber                                     

 

 

実行委員による寄稿

 

大平繁子 Shigeko Ohira   

   シューマンの「女と愛の生涯」!あなたの年令には早すぎます。もっと人生経験を積

  んで大人になったら歌いましょう。今は「詩人の恋」です。ヴォルフの歌曲を勉強しな

  さい。最初のレッスンのお言葉です。妖精の歌、水の精、春だ!:その他オペラアリア

  等、夢中で勉強しました。

   先生の大きな身体から溢れる人間性と、表情豊かな声に巡り合い、大学生活の締め括

  りの専攻科の二年間は、私にとって印象深い日々でした。今迄、歌い続けた事も、学生

  の指導にも、先生のお教えが生かされており、感謝しております。

 

川上勝功 Katsunori Kawakami 

   私とHüsch先生との最初の出会いは、芸大生の頃の公開レッスンでした。もちろん、

  その遥か以前から、レコードで先生の演奏を沢山聴いておりましたし、中山悌一先生の

  師であられる事も承知しておりました。当日はシューマンのIntemezzo”を演奏した

  のですが、非常に緊張してしまいあまりうまく歌えなかった事を、昨日の事のように覚え

  ています。今回このメモリアルコンサートで演奏させて頂ける事を光栄に思います。

 

川村英司 Eiji Kawamura   

   私の家にあったレコードの中にはヒュッシュ先生のものが一枚もなく、名前を知った

  のは大学に入学してしばらくしてからでした。ヒュッシュ先生の初来日に際して日本の

  マスコミは[リートの神様の来日!]と大騒ぎでした。日本にはヒュッシュ2世、3世と

  言われる人が存在するほどの時代でしたから、来日された折りに芸大の旧奏楽堂で3音

  大(当時の音楽大学は3校だけでした)から1人づつが公開講座を受けることとなり私

  も選ばれ、非常に緊張して受講したことを覚えています。

   恐らく戦後最初の声楽の公開講座であったと思います。

 

木川田 澄 Kikawada Kiyoshi 

   高校時代にテレビで拝見したシューベルトを歌われるお姿は、リートの求道者のよう

  な印象であったことを鮮明に記憶しております。

 

鬼頭礼子 Kito  Reiko 

  音大に入学する前にヒッシュ先生とお会いしたのは、グルリットオペラの「ドン ジョヴ

 ァン二」でした。私はコーラスで出演し、夢の様なすばらしい体験をしました。そして国立

 音大の専攻科で直接先生の御指導を受ける事が出来て、本当に幸せでした。

  レーヴェ(Loewe)の「詩人トム」などは、白い馬に乗って来たブロンドの婦人の前に

 ひざまづく様子を、すてきな王子様のように演じて、教えて下さった姿が忘れられません。

  私は年を重ねましたので今回はどうしようかと思いましたが、先生との思い出に感謝し

 つつ歌わせていただきます。

 

蔵田裕行 Hiroyuki Kurata 

   高校時代、針がすり減るほど繰り返し聴いたSP盤ゲルハルト・ヒュッシュの“冬の

  旅”。ドイツ語の知識もないまま、聞きかじりでうたっていたのが私のドイツ・リートへ

  の入門だった。

   その後、同志社大学の栄光館で氏の生の“冬の旅”を聴くに及んで、私のドイツ・リ

  ートへの想いは信仰にまで高まって行ったが、更に8年後、中山先生のお達しで氏に師

 事することになろうとは夢にも思わなかった。今日は、最後にお会いしたミュンヘン音楽

 大学でのお姿を思い浮べながら歌いたいと思います。

 

小林道夫Michio Kobayashi

    ヒュッシュ先生というと、或る時しみじみと「人間、特に音楽家は『自然』と正しい関

  係になければならない。 現代の子供達はそのうちに、じゃが芋が木に生り、林檎が土の中

  に出来ると思うようになるかも・・・・」と言われたのを思い出す。大都会に住んで、物

  お金にふりまわされる自分の姿に気がつくと、子供達がじゃが芋や林檎どころか、もっ

  と大切な価値観までもおかしくしてしまいかけているのも見えてきて、何ともやりきれな

  い。

音楽が持っている魔法のような力を我々現代の演奏家達が発揮出来なくなっていると

  すれば、これは大変な問題ではないだろうか。

 

高折 續 Tuzuku Takaori   

  ヒュッシュ先生に初めてお目にかかったのは1961年の夏、来日される先生を中山悌

 一先生の名代として、原田茂生さんと二人で羽田空港にお迎えに参上した折であった。

  「Herzlich Willkommen Herr Kammersänger」と歓迎の口上を練習しお出迎えした。

  到着ロビーの先生は長身で端正、深い眼差し、優しい微笑み、分厚い手での握手、つい

 昨日のような気がする。

  原田さんと私はその年の秋 München に留学したためヒュッシュ先生の在日中は残念

 ながらご指導いただくことは出来なかった。数年後帰国してから、愛知芸大客員教授とし

 て滞在中の名古屋から、定期的に洗足学園に講義に来られ、奇しくも私は先生のお手伝い

 をあずかる事となった。講座ではいつも「Intensität! Intensiv」にとおっしゃられ

 たことが強く印象に残っている。まさにヒュッシュ芸術の一端を象徴する言葉であろう。

  その当時上京中のお宿は、大森山王にあった小さなアパートで、先生は畳の上の「パー

 フェクション石油ストーブ」がお気に入りで、少年のような眼差しで炎の輝きを見つめ、

 微笑んでおられた様子が、今も鮮明に目蓋に浮かぶ。また先生は胡麻豆腐を好んで食され

 たが、それも大森山王百貨店のが一番だとおっしゃられ、幾度か購入した記憶がある。

  ともかく先生は「胡麻豆腐は世界に誇れる日本の最高の食材である」と力説された。

  私事であるが、先生の歌唱に初めて接したのはレコードによる「美しき水車屋の娘」で

 あった。その出会いが声楽の道を歩む大きな契機となり、その後も多大な影響を受けたの

 である。私はその「美しき水車屋の娘」でデビューを果たした。不思議なご縁を感じない

 ではいられない。

 

豊住征子 Toyozumi  Masako 

  ミュンヘンに二年間留学中、週2回の声楽のレッスンと奥様から週1回ドイツ語の朗 

 読法と解釈を学びました。貧乏留学生でしたので、毎週1回どいつの大きな美味しいケー

 キを最低3個は食べさせていただきました。

  先生が常に言われていたこと「歌曲を歌う場合ドイツ語の詩の理解以外に作曲家の生き

 ていた時代に戻り、自分なりに場面を想像して歌いなさい」が私の中に強く残っています。

 

中瀬絹枝 Kinue  Nakase

  G・ヒュッシュ、武岡鶴代、矢田部勁吉、四谷文子、今は亡きこの四人のすばらしい声楽

 家に御指導戴きました私は、声楽家を志す者としての全てを、この諸先生方に学ぶ事が出

 来た様に思います。その宝物はモーツァルト、シューベルト、シュトラウスのみならず、

 シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、三善晃、毛利蔵人、ヴィラ・ロボス等現代曲を演

 奏する折も変わる事なく心の中に生きております。ヒュッシュ教授に心からの感謝を持っ

 て演奏させて頂きます。

 

三上かーりん Karin Mikami 

  かって私はMünchen音楽大学に在学中、ヒュッシュ先生の声楽レッスンを伴奏で受講

 した。先生は「An ChloeKV 524のレッスンで、「プロは自分自身が楽しむのではなく 相

 手を楽しむように曲を仕上げる」と言われたことを一生忘れられない。

  ドライブの前に地図を読むのと同じく、テキストと音楽を判断する。「An Chloe」のキ

 ーワード<Sterbend>に注意:「死ぬまで愛する」のではなく、ただ「ひとときの逢瀬」

 であり、「不滅の恋」ではなく「一瞬の恋の燃え上がりに水を差すのが死ぬほど辛い」。楽

 譜の情報、時間の流れと一時停止(テンポ・フェルマータ)、景色の移り変わり(長短調・

 強弱の両極・音型の上下)などをもって、演奏を演出する。微笑や目線の送り方や手の表

 情までも。「さすがプロだ」と思った。

 

宮原卓也 Takuya Miyahara 

  「取って置きの受身」 ヒッシュ先生が東京芸大の教授として東京に来られたとき、私

 は、せっせと先生宅に通い、ドイツリートのレッスンを受けました。先生は、レッスン代

 を学生並にして下さったばかりか、若くて美人のルイゼ夫人に柔道(護身術)を教えると

 云う条件で、更に安くして下さいました。私は歌のレッスンが終ると、レッスン室の後の

 方にある畳の部屋で、夫人に柔道を教え、私の伴奏者として来ていた家内は、次に来た高

 橋大海君の歌のレッスンの伴奏を弾いていたようです。

  ある時、夫人にせがまれて、特別の「前方回転の受身」を演じて見せましたら、夫人は

 驚嘆のあまりに大声をはりあげて、何かドイツ語で叫びましたが、その声にびっくりした

 ヒッシュ先生が、畳の部屋に入って来られたので、私は、この「取って置きの受身」を

 再び演ずることになりました。先生は、「宮原の受身の神経の使い方は、歌の呼吸方に通ず

 る」と言って褒めて下さいました。

  あれから五十年たった今。ヒッシュ先生のお墓に参りルイゼ夫人にも逢いたく思います。

 

山田俊雄 Yamada  Toshio

  G.ヒュッシュ教授は私の母校(洗足学園大学)には1969年から数年間いらして下

 いました。授業はクラス単位で行われ、男性はシューベルトの歌曲を中心に指導して頂き

 ました。

 教授に初めてお会いした時の第一印象は「背が高くて足の長いスタイリストの先生」と

今でも思い出します。

 

芳野靖夫 Yasuo Yoshino 

  20世紀の偉大な声楽家G・ヒッシュとの出会いはNHKの番組「冬の旅」であった。 8

 人の受講者が冬の旅全曲のレッスンを受けたのだが、当時(40年ほど前)は生放送しかな

 かったので一応リハーサル時にレッスンを受けた上で本番にはいる。最初の3曲を歌った

 私は本番の時には先程注意された点は直ってしまっていて、ヒッシュのレッスン内容も変

 ってしまった。その結果通訳を担当された中山先生を戸惑わせてしまったのを昨日の事の

 ように覚えている。

 

渡邊 明 Akira Watanabe

  ヒュッシュ先生にお目に掛かったのは、今から40年も前のことである。先生が初めて来 

 日され芸大の奏楽堂で公開レッスンをなさった時、私は大学の3年生で、ベート−ヴェン

 の「遥かなる恋人に寄す」を歌い講評を受けた。あの頃は物も情報も今とは比較にならな

 いほど少なかったが、中山悌一先生の薫陶を受け遙か彼方のに輝くドイツリートに焦がれ

 夢みる私達にとって、中山先生の師であるヒュッシュ先生の来日は「黒船来航」ほどの大

 事件であった。ヒュッシュ先生が大勢の学生達を前にして「ArbeitArbeitArbeit

 「禁欲であれ!」「どんなに暗く悲しい歌でも希望を与えなければならない」と語った言葉

 が今でもはっきり記憶に残っている。その通り、その後聞いたヒュッシュ先生の「冬の旅」

 や「美しい水車小屋の娘」は、ひたすら暖かいものであった。 

 

 

 

他の実行委員による寄稿

 

高仁幸忠 Yukitada Takani(実行委員・第一プロモーション社長)

  「ヒュッシュ ファンの一人として」 198411月、G.ヒュッシュ氏の死去の記事

 を読み、私はソニーの大賀社長室でヒュッシュ夫人の住所を聞いて、なぐさめの手紙に見

 舞品を添えて送ったところ、丁重な返事をいただきました。その後、ヒュッシュ氏のお弟

 子さん達の活躍状況や、東京滞在中の住居の近くである渋谷周辺の最近の写真を送ったり

 する中、夫人とは自然に文通という形になっていきました。

  私にとって歌の神様であるヒュッシュ氏の夫人は初めは勿論、女神様でした。しかし、 

 高潔な手紙の中ににじむ細かい気配り、驚くばかりの日本文化への興味と造詣の深さ、そ

 して時として見られる品位あるウイット、こういうものから夫人のイメージは女神への畏

 敬から、友情というような親しさを覚えるようになりました。

  ヒュッシュ氏に学び、渋谷の御夫妻宅をよく訪れていた高橋大海教授(現東京芸大音  

 楽学部長)から今回のイベントの計画を知らされ、この企画、進行の一部をお手伝いでき

 たことを光栄に思いますと共に、今回のイベントを機に「ヒュッシュは格調の高い声楽の

 原点」 という思いが、 次の時代にも伝わっていくことを願ってやみません。

 

山路亮三 Ryouzou Yamaji (実行委員・声楽家・グルッペ ノネ会長)

  「グルッペ・ヒュッシュと、先生の教え」 1968年に、先生が愛知県立芸大に招聘され、 

 先生を中心に、当時の門下生により、1969年に結成されたのが「グルッペ・ヒュッシュ」

 である。この会は先生の多大なご尽力と、ご指導によって生まれ、飛躍的な発展をし、50

 回にわたる演奏会をもつことが出来ました。先生が帰国された後、1974年に会の名称を「グ

 ルッペ・ノネ」と改名し、「グルッペ・ヒュッシュ」の流れをそのまゝ受けつぎ、「ノネ」と

 なって、すでに62回の演奏会をもち、現在に至っております。(ノネ−楽譜構成上の9度)

  先生が残された偉業は、声楽に関する技術的なことは、いうまでもなく、音楽をとりま

 くすべてのものに、広く貢献され、この地方に大きな功績をもたらせて下さいました。

  あの慈悲深く、忍耐強い教えにより、数多くのことを学ばせて頂きました。先生の教え

 のなかから、最も印象づけられ、感銘をうけたものを取り上げ、在りし日の先生を忍びた

 いと思います。

   〇「沢山の音楽で、からだの中を充たしなさい、それだけでも、人は幸せになれます」

   〇「まず、何事もやってみること、出来るか、出来ないかで、迷ってはいけない、と

    にかく行動を起こすこと」

 不出来な演奏をして、落ち込んだ時に、

   〇「自分でその演奏が、上手く出来なかったと思っても、聴いた人、それぞれの評価

    があるので、きにすることは無い、悩まずに、勇気をもって、自分の音楽をつくり

    上げなさい」

 こゝに過ぎ去った日々を想う時、ヒュッシュ先生との出会いは私にとって正に奇跡であったと思います。横浜港から帰国された時の、先生のお姿が今なお脳裏に焼きついております。

            いつも微笑をたたえて

 

       ヒュッシュ先生はエムゲ教授を「生涯の恩師」と仰ぎ、本誌

      自筆年譜にも「青年期(1920年から1924迄)は毎日、その後

      も61年迄定期的にエムゲ先生に通い師事した」旨記されている。

       本誌2頁「この演奏会に寄せて」(1970.9.11名古屋)に関連

      しても、「例えば、私がエムゲ先生のもとで学びはじめたと言う

      ひとつの運命的出会いがあったため、エムゲ先生は私の生涯の

      師となられた。けれども、他の人には、エムゲ先生は先生として、

      適当でなかったかも知れない」と述べておられる。

発行日:2001.2.21

発行者・編集人:

 ゲルハルト・ヒュッシュ生誕100周年記念事業実行委員会

    二期会(〒151-0051東京都渋谷区千駄ヶ谷1-25-12

        電話03-3796-4711)    

日本声楽家教協会(〒110-0001東京都台東区谷中5-2-3

        電話03-3821-5166) 

印刷:(株)NHKプリンテックス